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モーリタニアをもっと知るための私立博物館

モーリタニアで非常事態宣言が出て、子どものオンライン学習が始まって2ヶ月。課題もたくさん出るし、大人のPC 作業並みのグーグルアプリ操作も出てくるし、ほぼオンライン学習につきっきりで日々が過ぎていく。PC操作に慣れていくことはこの世代では大事なことだし、 独立して学習する経験も大切だ。そうこうしてるうちにこの非常事態のおかげで私に仕事が舞い込んで来た。悪いことばかりではない。

さて閑話休題。国の歴史を知る上で博物館は貴重な情報源だ。ヌアクショットにある国立博物館ではモーリタニアに点在する中世の隊商都市などについて学べる。最近、サーファー仲間のチアリさんが彼のライフワークとして運営しているプライベートの博物館を見せてもらった。こちらは近代のモーリタニアを知るための貴重なコレクションがぎっしり詰まっていてなかなか見応えがある。

館長のチアリさんは、ご両親ともフランス国籍だがモーリタニア生まれのモーリタニア育ち。子どもの頃におじいさんからもらった、フランス統治時代のモーリタニアの写真が印刷された絵葉書がきっかけとなって、モーリタニアにまつわる古い写真や物などを収集するようになった。これが大量になり、学芸員の手を借りて仕分けを始めた。場所も狭くなってきたので、自宅を改造して博物館にした。

その展示物のほとんどがウェブ上でも公開されている。(www.mauritania.org) 実物を閲覧したり書籍を手に取りたい場合はFacebook の連絡先を通じての予約がおすすめ。https://www.facebook.com/fondationvergnol/

生活一般, Uncategorized

ついに、モーリタニアでも

モーリタニアへ乗り込んでくる航空会社は、モーリタニア航空を入れても13社。2019年の国外から入国した旅行者数は約4,000人。今や世界的に猛威を振るっているコロナ・ウィルスも、他国と比較すればモーリタニアにやってくるルートは限られているように思われる。

とはいえ、国籍を問わず、人と会う時もコロナ・ウィルスに関する話題は必ず出てくる。日本大使館から送られてくるコロナ・ウイルス情報も頻繁にアップデートされるようになった。先月は国内の医療機関で3名が感染を疑われたが、確認には至っていなかった。そんな中、子どもの通うアメリカン・スクールでは、米国疾病センターの指定するレベル3地域からの帰来者は14日間の自宅待機をするという規定が義務付けられた。また全員自宅待機となった事態に備えて、Google Classroomの活用したコミュニケーションも試運転開始された。登下校時にも消毒ジェルが義務化。先週は、学校からの通知で自宅待機の指定国も大幅に拡大された。感染者が確認されていなくても、ウィルスはもう我々の生活に変化を与えていた。

そして、3月13日付でついに感染者第一号の確認が発表された。学校はただちに2週間の閉鎖となった。プラス、その後に予定されていた春休み1週間もキャンセル。あわせて3週間の自宅学習となった。

週末だけでも自宅にいると退屈する子供が3週間自宅待機はつらい。親が出勤せねばならない家庭はさらに大変だろう。春休みに予定していた国外旅行はキャンセルせざるを得ない。予約していたカタール航空は、すでにいくつかの国へのチケットは返金・日程変更に柔軟な措置がでており、カタール国内への外国人渡航者による入国が厳しく制限され始めているようだ。我々のチケットも変更・返金可能か確認中である。

しばらくは、ここモーリタニアでものんびりとしつつも緊張した時期が続きそうである。一刻も早く事態が終息することを願わんばかりである。

アフリカ大陸にも確実に広がりつつある (地図は以下のサイトより)
https://www.aljazeera.com/news/2020/01/countries-confirmed-cases-coronavirus-200125070959786.html
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モーリタニアで日本食を作る

モーリタニアに日本食レストランは、無い。どこかのレストランで寿司の写真がメニューにあるが、注文してはならないとの大使館からのアドバイスがあり結局どのレストランかは未だ知らず。

日本大使公邸にご招待いただいた際にでてきた日本食に感動一入であった。

というわけで普段日本食が食べたい時は自分で作るしかない。食材も色々と揃っているわけではないので、ヌアクショット市内で手に入る材料でなんとかしている。

入手可能な材料は、まず日本米。日本の援助で入っているお米だ。20年ほど前に援助米をタンザニアの市場で見た時は、だいぶ古めのお米という印象があった。しかし昨今の援助米は、(多分)新米ではないにしろ、見た目もきれいだし、調理した時の味も悪くない。50キロ入りの大袋から量り売りなので、毎回5キロずつくらいを購入している。

日本の援助米

到着してしばらく家具や調理器具もほとんどなく暮らしていた頃に、スチーマー調理器を貸してくれた人がいた。これでも少量だが十分美味しく炊けた。

最近、外国人や外交団員が良く行く(というかそこしかない)家具・家庭用品店に炊飯器も最近登場した。これはやはり米食主体のアジア人口が増えている証拠とみている。日本人は相変わらず15-20人の推移だが、中国国籍の在住者は3000人という。炊飯器も売れるわけだ。

食材に話を戻すと、日本食に欠かせないのはおしょうゆだ。これは外国人向けのスパーマーケットで入手可能。来た当初にキッコーマンの卓上ビンに入ったものを見つけたので、「おしょうゆあるじゃん!」と安心したものだった。ところが、来客の際に天つゆを作ろうとして、しょうゆが切れていたのに気づき買いに走ったものの、キッコーマンはどのスーパーにも見当たらなかった、ということがあった。とりあえずフランス語でSauce de sojaと書いてあるタイ製造のとろみのあるものを使って急場をしのいだ。日本のおしょうゆは、あったら在庫の有無に限らず必ず買うことを鉄則としている。

こちらで手に入るおしょうゆ製品
スーパーの棚に並ぶ中国製のおしょうゆ

その一方で、中国製のおしょうゆは日本のおしょうゆよりもはるかに入手しやすい。もちろんキッコーマンもあったら助かるが、手に入る物でうまく和食を調理する方法を見つけるのも楽しいかもしれない。

代用品も見つけるのが難しい物としては、味噌がある。我が家の味噌使用頻度はあまり高くないが、無いと寂しい。現時点では、最近日本に一時帰国した方からおすそ分けしていただいた物を使っている。

20年以上日本に居住していないが、やはり日本食を食べるとホッとするものである。さて今日は何作ろうかな〜。

観光スポット, 国内旅行, 文化

世界遺産 シンゲティ(Chinguetti)への旅

義理の家族がモーリタニアにやってきて、中世の交易都市として栄えたことで知られる、世界遺産に登録されているシンゲティへ行ってきた。四角い石造りのシンゲティ金曜モスクはお札にも印刷されているし、写真もいろいろなところで見るが、一年半近くのヌアクショット生活を経て、初めて訪れることになった。観光地であるのと同時に、モーリタニアが誇る歴史の一部を成す地である。

在日モーリタニア大使館のウェブサイトによれば、 『(シンゲティは)隊商の中継地・教育の中心地として発展。写本、砂漠の図書館、イスラム寺院の塔といった文化施設により、その影響力はモーリタニアの隅々に及ぶ。モーリタニアは古くは「シンゲッティの国」と呼ばれていた』ということだ。モーリタニアの国としてのルーツを持つ都市なのだ。

その一方で、「あんまり見るところない」とか「途中ずーっと同じ風景で退屈」とかいうシンゲティ体験談をいくつか聞いていたので、事前の期待度は特別高くなかった。だが、ヌアクショット生活のモーリタニアと、シンゲティ観光のモーリタニアでは、まったく国の印象が変わってしまった。途中で立ち寄ったテルジットなども含めて、こんなに素晴らしい観光資源があるではないか、モーリタニア!と思うようになった。もちろん他の国と比較の問題もあるかもしれないが、ここ数年観光客も増加しているのこと、ぜひもっと知られてほしいものである。

さて今回の旅は、いつもガイドをお願いするシディさん に予約関連と車一台の運転を依頼した上、日程はかなり緩く組んだ。歩きも最小限。一日目は、 なるべく移動時間を短くするため に、3週間前に子どもの修学旅行で来たオアシスの町テルジットに宿泊。遅めのお昼ご飯を宿で食べた後、車でオアシス入口まで行き、ヤシの木と水源でのんびり。宿に出夕食の後は静かに夜が更け、星空を仰ぎながら他の宿泊客とおしゃべりした後、テントで眠りについた。

二日目と三日目の夜は、シンゲティ宿泊だ。 シンゲティに行くには、テルジットからさきに広がる山岳地帯の山を越えながら、アタル(Atar)まで国道一号線の舗装道路をひたすら北上。さらにもう一山超えていかねばならない上、途中からは無舗装になる。岩の切り立った山道を運転する場面などがあり、結構スリリングだ。深い峡谷を脇に見ながらアドラ山岳を登っていく。

切り立つ岩山を抜けるように超えていく

アタルに到着すると、町の中心部のロータリーに駐車し、マルシェを散策。建築物も石造りが多く、ヌアクショットとは大分違う雰囲気だ。アタルで創業30年近くになるパン屋さんがあり、ここのパンが「Pain d’Atar」と呼ばれ、おいしくて有名ということで、いくつか買い、昼食用のお肉(メシュイ肉)とお茶用のミントを買って、さらにシンゲティへと歩を進める。

アタルはパンがおいしいらしい。

アタルを過ぎてしばらくすると、シンゲティへ向かう分かれ道がある。ここから先はほぼ無舗装だ。シンゲティまではもう一山超えていかなければならない。途中切通の山道があり、砂漠を通ってきてまた砂漠に出るはずなのに、山道を通ることがなんとなく不思議だ。それからしばらく平坦な道を通ると、両側に岩山の風景が続く。

すると左側にキリンの絵が描いてある看板が立っている。動物のキリンの絵だ。ここにも洞窟壁画が残っているのだ。しかもキリンが描かれているという。 テルジットでも、まだサハラ砂漠が緑豊かな大地だったころに描かれたであろうゾウの洞窟壁画を見た。その時のガイドと呼ばれる青年は壁画の場所を知っていて洞窟に入るドアのカギを持っているだけだったが、ここではいろいろと説明してくれた。時代的にはテルジットのものと同じころで、絵の具は動物の血と土を混ぜて、描き方は輪郭から点をつなげるようにして描かれているという。 保存のためにフラッシュをたかないでください、という注意書きもちゃんとある。 一応周囲に塀があり勝手に近づいたりはできないようになっているが、日光や風から完全に遮断されているわけではないので、これからより良い形で保護されていくことを願う。

その隣の休憩用の岩陰でお昼のメシュイを調理。食後のお茶を飲んで、いざシンゲティへ。30分ほどで金曜モスクを模した門が見えてくる。シンゲティの入り口だ。

シンゲティの門

まずはホテルへ。L’Edenというホテルの一部である、町から少し離れ砂丘のふもとにある施設に泊まった。周囲はぐるりと砂漠で、砂丘と空のコントラストが見事だ。ここには一戸建てのシャワー・トイレ付の部屋と、テントがそれぞれいくつかあり、太陽光発電で電気も通っている。お手洗いもちゃんと水洗だ。砂漠に来ておいて生ぬるい!と思われそうだが、今回は両親の快適さを優先。 バン・ダルガン国立公園では常に青空トイレで、好きな時に用が足せるわけではなかった。 何だかんだ言っても多少文明の手が入っているのはありがたいものだ。さて両親は一戸建ての部屋に、我々はテントに宿泊した。

日没は午後6時半あたり。この時間帯を狙って観光客が砂丘に上っていく。我々も日暮れを見に砂丘へ登る。もちろん車でだ。四輪駆動車でなければこうはいかない。砂丘の上は風が強いが、うす暗くなっていく空と砂丘はセピア色の写真を見ているようだ。日が沈むと急に寒くなり、宿へと降りて行った。食事は離れの部屋でとる。この日の食事で、生まれて初めてラクダ肉を食した。野菜と煮込んだシチューで、クスクスと一緒に食べる。羊肉よりも味があっておいしい。ヌアクショットでもお店でも売っているが何となく敬遠していた。これからは時々料理してみよう。

砂漠の夜は冷え込む。宿に頼んでテントの前で火を焚いてもらった。暖を取って、テントにもぐりこんだ。

朝は砂丘から登ってくる朝日を見ながらコーヒーを淹れた。シンゲティ旧市街には午前中行き、昼食をヤシ農園でとる予定だ。

シンゲティの旧市街は、8世紀に基礎が築かれ、13世紀には地中海とサブ・サハラ・アフリカをつなぐ、サハラ砂漠横断における隊商の中継、またメッカ巡礼への通過地点として栄えた。建物は石造りで、ラクダのふんと土地を混ぜてセメント代わりにし建設されたという。扉の枠組みにはナツメヤシの木材が使われている。扉そのものは当時入手可能だった大きなアカシアの木を一枚板として作られたそうだ。扉のサイズは小さく大人は腰を曲げないと通過できない。砂除け、外部からの侵入を防ぐこと、暑さ対策などが目的で、土地の材料で気候風土に合わせてできた家屋だ。また暑さや砂を避けるために多くの住居は階段を下りて入る、地下に造られた構造になっている。現在ではほとんどの住居は壁が崩れ、遺跡となっているが、中には手を入れて人が住んでいる家屋もある。確かに同時期のヨーロッパの建物などと比べると損傷が激しく、暑さ・乾燥・砂風などもあり、文字通り風化しつつある町なのである。

迷路のような石の壁をつたって抜けていくと、そこにあの何度も写真で見た金曜モスクの塔が立っていた。塔の先に丸いアンテナのようなものが5本立っている。ダチョウの卵の殻を使ってできているのだそうだ。

そしてもう一つのこの町の見どころは、図書館だ。我々が行った図書館Al Ahamed Mahmoudでは、最盛期だった頃に写経された経典や使われたアラビア学問の教科書が保存されている図書館がいつくか残っている。シンゲティはアラビア学問の西アフリカの中心としても栄え、聖地とされた場所でもあったのだ。何十年もこの図書館を紹介しているサイフ先生が、時には詩を歌いながら、古い書物を一つ一つ紹介してくれる。先生の、シンゲティ歴史にかける情熱が伝わってくる。そして図書館の外には、「知識は、滅びることなく継がれていく唯一の富である」というメッセージが看板にあった。先生はその大切な役割を負っている一人なのである。

最盛期には、約3万頭ものらくだを連れた巡礼者たちがこの地からメッカを目指したという。そしてこの地で識者たちが歴史やコーランについて議論を交わし、西アフリカ各地からその学識を学ぼうとする人々がはるばる集まってきたのだ。その豊かな歴史そのものを語り継いでゆくためにも、ぜひシンゲティ旧市街の保存が進められていくことを願う。

そして、図書館を出ると日本人の観光客グループに遭遇した!毎年20-30名の日本人旅行客が来るとは聞いていたが、本当だった。ぜひ日本に戻ってからモーリタニアの話を広めてほしいものである。

図書館を後にし、再度車に乗り込み、ヤシ農園でのお昼。木陰にゴザがしいてある、いつものモーリタニアン・スタイルだ。農園でとれたナツメヤシの実を食べながらお昼を待つ。食べた後も、そのまま横になってシエスタ。シディさんがお茶を淹れつつ、息子にモーリタニアのLe Sigというゲームを教えてくれる。砂の上で小枝や小石を使う昔ながらの遊びだ。のんびりして宿に戻ったころには4時を回っていた。本を読んだりしてまた日暮れ時に砂丘に登る。

翌日は、同じルートでヌアクショットへ戻る。テルジットに一泊し、次の日は朝からひたすら運転してヌアクショットの自宅に着いたのは昼過ぎだった。かなり駆け足だが、詰め込まずに日程を組んだので、あまり疲れも残らなかった。

シンゲティの他にも、ウアダン、ウアラタ、ティシットなどの古くに砂漠の要衝として栄えた町がいろいろとある。ぜひ近いうちにまた行ける機会を作りたい。

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テルジット (Terjit) 小旅行: オアシスと狭谷散策

息子の通うアメリカンスクールが、昨今のモーリタニア治安改善に伴って、宿泊修学旅行を復活させる事になった。息子のクラスが皮切りとして、サハラ砂漠のオアシスとして知られるテルジットヘ2泊3日で行くという。スクールバスなどもないため、交通手段確保も兼ねて家族の参加大歓迎と聞き、家族揃って参加した。

行きは、途中にトイレ休憩やランチ休憩を挟んで5-6時間ほどのドライブ。国道1号線はきれいに舗装されていて運転そのものはセネガルへ向かう道よりもはるかに楽だ。近づくにつれて巨大な岩のような山が見えるようになる。

さらにその岩山の割れ目を縫うかのように山に登って行く。普段ヌアクショットでは坂道すらほとんどない。バンダルガンに行った時も砂丘はあるがこんな岩山は無かった。色こそ違うが、昔アメリカを旅行した時に訪れたアリゾナのモニュメント・バレーを思い出した。

アドラ山岳地帯へ入って行く

宿泊先は、ナツメヤシの木に囲まれた、モーリタニア式テント・ハイマが並んでいるだけの簡素な宿だが共同シャワーとトイレがある。子供たちは先生たちと荷ほどや明日の行動を確認するあいだ、我々保護者はのんびりとミントティー。 一息ついた後、宿から徒歩で10分のテルジット・オアシスへ出向いた。

店じまいしつつあるお土産売りの人々通り過ぎると、足元の地面が苔むしたような緑色の湿った砂地になってくる。ヤシの林をくぐり抜けると、目の前にそそりたつ岩盤から水滴が落ちている。水滴は小川となり、沢となっている。

水の染み出る岩盤。

沢に素足を浸すと、小さな魚たちが寄って来て足の角質をついばんでくる。フィッシュ・スパで使われるドクター・フィッシュらしい。

翌日、子供たちが野外学習の間、午前中に宿から徒歩1時間ほどでたどり着くという洞窟壁画を見に行った。オアシスを通り過ぎ、ヤシのしげる狭谷を通り抜け、砂地の急勾配を上がると、広大な窪地にいた。窪地の壁となる岩盤を登った所に壁画があるという。3-40 分ほどかけて岩場を登ると、岩山の平らな頂上に辿り着いていた。

洞窟壁画はそこからさらに15分ほど歩いたところにあった。テルジットに古代壁画があるという話は聞いたことがなかったので、こういうのが大好きな私はかなり興奮した。

洞窟と言うより、岩の天井に人間や牛の絵が生き生きと描かれている。しかも象が描かれている。この壁画は3000から5000年前に描かれたと推定されている。およそ8000年から5000年前まではサハラ砂漠は湿潤な大地だったそうだ。きっとこの岩だらけの高地も緑があったに違いない。そして象はのんびりと草を食んでいたことだろう。

こちらは牛。

そしてお昼は、保護者の知り合いのヤシ農園でランチ。テルジットから国道1号線を挟んで反対側の岩がちな道を車で下ると、緑が見えてくる。農園の一角には既にカーペットやクッションがしいてあり、大きな鍋が炭火の上で湯気をたてていた。我々保護者チームはのんびりとくつろぎ、まずはお茶。そしてお手洗いセットがやってきて手を洗う。農園で生産されたなつめヤシが出てきた。なつめヤシはモーリタニアでは食前のおつまみだ。鍋から出てきた大きな羊肉の塊を皆でついばむようにして食べる。もちろん素手。フランスパンと一緒にお肉を食べたり、茹で汁をパンに浸して食べたり、塩味だけのシンプルな茹で肉がこんなにおいしいのもモーリタニアならではである。

ヤシ農園でランチ

お肉を平らげてまったりしていると、今度はお肉と炊いたご飯が出てきた。前の皿の残りではなく、他の部位を使っている。右手で小さくにぎりしめてご飯を食べるのが 習わしだ。手で食事ぃー?と思われるかもしれないが、日本のおにぎりだって、タンザニアのウガリだって手で食べるほうがずっとおいしい。それと同じだ。

たらふく食べて、宿に戻った。夜は子どもたちがキャンプファイヤーを囲んで歌ったり太鼓を叩いたり、クラスメートの誕生日を祝ったりしながら夜がふけていった。

翌日は6時半起床、8時出発。学校に帰り着いたのが途中のトイレ休憩を挟んで午後2時。大人も子どもも楽しんで帰り着いたのだった。

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冠婚葬祭にらくだ

息子の学校の脇にある民家の前にオンボロのトラックが停車して渋滞を引き起こしている。事故でもあったのかと思いきや、荷台から一頭のらくだが引きずり下ろされている。

まるで映画で聞いた怪獣の鳴き声に似たらくだの鳴き声が響く。2-3 人の男性がらくだを上から地面に押し付けるようにして座らせ、動かないように四肢を縛られようとしているからだ。

冠婚葬祭のご祝儀やお香典、または献花と言った物の代わりに、こちらでは家畜を送ることが多く、特にらくだが価値があるとされている。今回見たらくだはお葬式向けということであった。

そしてその数は日を追って増える。

次の日は3頭。
その次の日は4頭。

そして最後に見た金曜日は5頭まで増えていた。このらくだ達は、お葬式後に解体され、貧しい人達に配られるという事だった。家族や参列者に限ららないそうだ。

これについて色々調べてみようとしたが、なかなか文献などが見つからなかった。モーリタニア人でも詳しく説明できる人には会っていない。ご存知の方がいたら教えていただきたい。

最後は5頭だった。
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新緑の季節

11月の声が聞こえてくると、ヌアクショットのあちこちで木の枝を大がかりに剪定しているのを見かけるようになる。11月から涼しい乾季に入るためだ。

我が家は庭が高い木に囲まれているため、暑い時は影があって涼しいが、日光が必要な植物もあるため一気に枝落としをしてしまおうと考えた。

まずは庭木剪定歴40年を誇る庭師が二人組でやってきた。うちのスタッフと木を見ながら協議して、早速仕事に取り掛かるかと思いきや、彼の仕事道具である斧をスタッフに渡し帰って行った。契約成立、の印だそうだ。

翌日、庭師ははしごも使わずあっという間に木に登った。斧一つとロープで引っ張って切り落とす。

剪定作業中

風の強い日は来ない、とかで開始から約1週間がかりで作業終了。

剪定した枝の運搬

しかし剪定した枝の運搬は別業者。昨今は遠くまで行って捨てねばならないそうで、一往復にかかる料金は800ウギアと言われた。ちょっと高くないか?何とか交渉して600になった。丸一日かけて4ー5回往復で終了した。

日々涼しくなってきたヌアクショット。次は2年目の家庭菜園に取り掛かる。