義理の家族がモーリタニアにやってきて、中世の交易都市として栄えたことで知られる、世界遺産に登録されているシンゲティへ行ってきた。四角い石造りのシンゲティ金曜モスクはお札にも印刷されているし、写真もいろいろなところで見るが、一年半近くのヌアクショット生活を経て、初めて訪れることになった。観光地であるのと同時に、モーリタニアが誇る歴史の一部を成す地である。
在日モーリタニア大使館のウェブサイトによれば、 『(シンゲティは)隊商の中継地・教育の中心地として発展。写本、砂漠の図書館、イスラム寺院の塔といった文化施設により、その影響力はモーリタニアの隅々に及ぶ。モーリタニアは古くは「シンゲッティの国」と呼ばれていた』ということだ。モーリタニアの国としてのルーツを持つ都市なのだ。
その一方で、「あんまり見るところない」とか「途中ずーっと同じ風景で退屈」とかいうシンゲティ体験談をいくつか聞いていたので、事前の期待度は特別高くなかった。だが、ヌアクショット生活のモーリタニアと、シンゲティ観光のモーリタニアでは、まったく国の印象が変わってしまった。途中で立ち寄ったテルジットなども含めて、こんなに素晴らしい観光資源があるではないか、モーリタニア!と思うようになった。もちろん他の国と比較の問題もあるかもしれないが、ここ数年観光客も増加しているのこと、ぜひもっと知られてほしいものである。
さて今回の旅は、いつもガイドをお願いするシディさん に予約関連と車一台の運転を依頼した上、日程はかなり緩く組んだ。歩きも最小限。一日目は、 なるべく移動時間を短くするため に、3週間前に子どもの修学旅行で来たオアシスの町テルジットに宿泊。遅めのお昼ご飯を宿で食べた後、車でオアシス入口まで行き、ヤシの木と水源でのんびり。宿に出夕食の後は静かに夜が更け、星空を仰ぎながら他の宿泊客とおしゃべりした後、テントで眠りについた。
近くの岩山に登ってホテルを見下ろす テルジットから見た丘陵の風景
二日目と三日目の夜は、シンゲティ宿泊だ。 シンゲティに行くには、テルジットからさきに広がる山岳地帯の山を越えながら、アタル(Atar)まで国道一号線の舗装道路をひたすら北上。さらにもう一山超えていかねばならない上、途中からは無舗装になる。岩の切り立った山道を運転する場面などがあり、結構スリリングだ。深い峡谷を脇に見ながらアドラ山岳を登っていく。

アタルに到着すると、町の中心部のロータリーに駐車し、マルシェを散策。建築物も石造りが多く、ヌアクショットとは大分違う雰囲気だ。アタルで創業30年近くになるパン屋さんがあり、ここのパンが「Pain d’Atar」と呼ばれ、おいしくて有名ということで、いくつか買い、昼食用のお肉(メシュイ肉)とお茶用のミントを買って、さらにシンゲティへと歩を進める。

アタルを過ぎてしばらくすると、シンゲティへ向かう分かれ道がある。ここから先はほぼ無舗装だ。シンゲティまではもう一山超えていかなければならない。途中切通の山道があり、砂漠を通ってきてまた砂漠に出るはずなのに、山道を通ることがなんとなく不思議だ。それからしばらく平坦な道を通ると、両側に岩山の風景が続く。
すると左側にキリンの絵が描いてある看板が立っている。動物のキリンの絵だ。ここにも洞窟壁画が残っているのだ。しかもキリンが描かれているという。 テルジットでも、まだサハラ砂漠が緑豊かな大地だったころに描かれたであろうゾウの洞窟壁画を見た。その時のガイドと呼ばれる青年は壁画の場所を知っていて洞窟に入るドアのカギを持っているだけだったが、ここではいろいろと説明してくれた。時代的にはテルジットのものと同じころで、絵の具は動物の血と土を混ぜて、描き方は輪郭から点をつなげるようにして描かれているという。 保存のためにフラッシュをたかないでください、という注意書きもちゃんとある。 一応周囲に塀があり勝手に近づいたりはできないようになっているが、日光や風から完全に遮断されているわけではないので、これからより良い形で保護されていくことを願う。
その隣の休憩用の岩陰でお昼のメシュイを調理。食後のお茶を飲んで、いざシンゲティへ。30分ほどで金曜モスクを模した門が見えてくる。シンゲティの入り口だ。

まずはホテルへ。L’Edenというホテルの一部である、町から少し離れ砂丘のふもとにある施設に泊まった。周囲はぐるりと砂漠で、砂丘と空のコントラストが見事だ。ここには一戸建てのシャワー・トイレ付の部屋と、テントがそれぞれいくつかあり、太陽光発電で電気も通っている。お手洗いもちゃんと水洗だ。砂漠に来ておいて生ぬるい!と思われそうだが、今回は両親の快適さを優先。 バン・ダルガン国立公園では常に青空トイレで、好きな時に用が足せるわけではなかった。 何だかんだ言っても多少文明の手が入っているのはありがたいものだ。さて両親は一戸建ての部屋に、我々はテントに宿泊した。
日没は午後6時半あたり。この時間帯を狙って観光客が砂丘に上っていく。我々も日暮れを見に砂丘へ登る。もちろん車でだ。四輪駆動車でなければこうはいかない。砂丘の上は風が強いが、うす暗くなっていく空と砂丘はセピア色の写真を見ているようだ。日が沈むと急に寒くなり、宿へと降りて行った。食事は離れの部屋でとる。この日の食事で、生まれて初めてラクダ肉を食した。野菜と煮込んだシチューで、クスクスと一緒に食べる。羊肉よりも味があっておいしい。ヌアクショットでもお店でも売っているが何となく敬遠していた。これからは時々料理してみよう。
砂漠の夜は冷え込む。宿に頼んでテントの前で火を焚いてもらった。暖を取って、テントにもぐりこんだ。
砂漠にはブウブウが映える 観光客を乗せたラクダ隊列が通過 砂丘からの夕日と眼下のホテル
朝は砂丘から登ってくる朝日を見ながらコーヒーを淹れた。シンゲティ旧市街には午前中行き、昼食をヤシ農園でとる予定だ。
シンゲティの旧市街は、8世紀に基礎が築かれ、13世紀には地中海とサブ・サハラ・アフリカをつなぐ、サハラ砂漠横断における隊商の中継、またメッカ巡礼への通過地点として栄えた。建物は石造りで、ラクダのふんと土地を混ぜてセメント代わりにし建設されたという。扉の枠組みにはナツメヤシの木材が使われている。扉そのものは当時入手可能だった大きなアカシアの木を一枚板として作られたそうだ。扉のサイズは小さく大人は腰を曲げないと通過できない。砂除け、外部からの侵入を防ぐこと、暑さ対策などが目的で、土地の材料で気候風土に合わせてできた家屋だ。また暑さや砂を避けるために多くの住居は階段を下りて入る、地下に造られた構造になっている。現在ではほとんどの住居は壁が崩れ、遺跡となっているが、中には手を入れて人が住んでいる家屋もある。確かに同時期のヨーロッパの建物などと比べると損傷が激しく、暑さ・乾燥・砂風などもあり、文字通り風化しつつある町なのである。
迷路のような石の壁をつたって抜けていくと、そこにあの何度も写真で見た金曜モスクの塔が立っていた。塔の先に丸いアンテナのようなものが5本立っている。ダチョウの卵の殻を使ってできているのだそうだ。
そしてもう一つのこの町の見どころは、図書館だ。我々が行った図書館Al Ahamed Mahmoudでは、最盛期だった頃に写経された経典や使われたアラビア学問の教科書が保存されている図書館がいつくか残っている。シンゲティはアラビア学問の西アフリカの中心としても栄え、聖地とされた場所でもあったのだ。何十年もこの図書館を紹介しているサイフ先生が、時には詩を歌いながら、古い書物を一つ一つ紹介してくれる。先生の、シンゲティ歴史にかける情熱が伝わってくる。そして図書館の外には、「知識は、滅びることなく継がれていく唯一の富である」というメッセージが看板にあった。先生はその大切な役割を負っている一人なのである。
最盛期には、約3万頭ものらくだを連れた巡礼者たちがこの地からメッカを目指したという。そしてこの地で識者たちが歴史やコーランについて議論を交わし、西アフリカ各地からその学識を学ぼうとする人々がはるばる集まってきたのだ。その豊かな歴史そのものを語り継いでゆくためにも、ぜひシンゲティ旧市街の保存が進められていくことを願う。
そして、図書館を出ると日本人の観光客グループに遭遇した!毎年20-30名の日本人旅行客が来るとは聞いていたが、本当だった。ぜひ日本に戻ってからモーリタニアの話を広めてほしいものである。
図書館を後にし、再度車に乗り込み、ヤシ農園でのお昼。木陰にゴザがしいてある、いつものモーリタニアン・スタイルだ。農園でとれたナツメヤシの実を食べながらお昼を待つ。食べた後も、そのまま横になってシエスタ。シディさんがお茶を淹れつつ、息子にモーリタニアのLe Sigというゲームを教えてくれる。砂の上で小枝や小石を使う昔ながらの遊びだ。のんびりして宿に戻ったころには4時を回っていた。本を読んだりしてまた日暮れ時に砂丘に登る。
翌日は、同じルートでヌアクショットへ戻る。テルジットに一泊し、次の日は朝からひたすら運転してヌアクショットの自宅に着いたのは昼過ぎだった。かなり駆け足だが、詰め込まずに日程を組んだので、あまり疲れも残らなかった。
シンゲティの他にも、ウアダン、ウアラタ、ティシットなどの古くに砂漠の要衝として栄えた町がいろいろとある。ぜひ近いうちにまた行ける機会を作りたい。