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モーリタニアで日本食を作る

モーリタニアに日本食レストランは、無い。どこかのレストランで寿司の写真がメニューにあるが、注文してはならないとの大使館からのアドバイスがあり結局どのレストランかは未だ知らず。

日本大使公邸にご招待いただいた際にでてきた日本食に感動一入であった。

というわけで普段日本食が食べたい時は自分で作るしかない。食材も色々と揃っているわけではないので、ヌアクショット市内で手に入る材料でなんとかしている。

入手可能な材料は、まず日本米。日本の援助で入っているお米だ。20年ほど前に援助米をタンザニアの市場で見た時は、だいぶ古めのお米という印象があった。しかし昨今の援助米は、(多分)新米ではないにしろ、見た目もきれいだし、調理した時の味も悪くない。50キロ入りの大袋から量り売りなので、毎回5キロずつくらいを購入している。

日本の援助米

到着してしばらく家具や調理器具もほとんどなく暮らしていた頃に、スチーマー調理器を貸してくれた人がいた。これでも少量だが十分美味しく炊けた。

最近、外国人や外交団員が良く行く(というかそこしかない)家具・家庭用品店に炊飯器も最近登場した。これはやはり米食主体のアジア人口が増えている証拠とみている。日本人は相変わらず15-20人の推移だが、中国国籍の在住者は3000人という。炊飯器も売れるわけだ。

食材に話を戻すと、日本食に欠かせないのはおしょうゆだ。これは外国人向けのスパーマーケットで入手可能。来た当初にキッコーマンの卓上ビンに入ったものを見つけたので、「おしょうゆあるじゃん!」と安心したものだった。ところが、来客の際に天つゆを作ろうとして、しょうゆが切れていたのに気づき買いに走ったものの、キッコーマンはどのスーパーにも見当たらなかった、ということがあった。とりあえずフランス語でSauce de sojaと書いてあるタイ製造のとろみのあるものを使って急場をしのいだ。日本のおしょうゆは、あったら在庫の有無に限らず必ず買うことを鉄則としている。

こちらで手に入るおしょうゆ製品
スーパーの棚に並ぶ中国製のおしょうゆ

その一方で、中国製のおしょうゆは日本のおしょうゆよりもはるかに入手しやすい。もちろんキッコーマンもあったら助かるが、手に入る物でうまく和食を調理する方法を見つけるのも楽しいかもしれない。

代用品も見つけるのが難しい物としては、味噌がある。我が家の味噌使用頻度はあまり高くないが、無いと寂しい。現時点では、最近日本に一時帰国した方からおすそ分けしていただいた物を使っている。

20年以上日本に居住していないが、やはり日本食を食べるとホッとするものである。さて今日は何作ろうかな〜。

観光スポット, 国内旅行, 文化

世界遺産 シンゲティ(Chinguetti)への旅

義理の家族がモーリタニアにやってきて、中世の交易都市として栄えたことで知られる、世界遺産に登録されているシンゲティへ行ってきた。四角い石造りのシンゲティ金曜モスクはお札にも印刷されているし、写真もいろいろなところで見るが、一年半近くのヌアクショット生活を経て、初めて訪れることになった。観光地であるのと同時に、モーリタニアが誇る歴史の一部を成す地である。

在日モーリタニア大使館のウェブサイトによれば、 『(シンゲティは)隊商の中継地・教育の中心地として発展。写本、砂漠の図書館、イスラム寺院の塔といった文化施設により、その影響力はモーリタニアの隅々に及ぶ。モーリタニアは古くは「シンゲッティの国」と呼ばれていた』ということだ。モーリタニアの国としてのルーツを持つ都市なのだ。

その一方で、「あんまり見るところない」とか「途中ずーっと同じ風景で退屈」とかいうシンゲティ体験談をいくつか聞いていたので、事前の期待度は特別高くなかった。だが、ヌアクショット生活のモーリタニアと、シンゲティ観光のモーリタニアでは、まったく国の印象が変わってしまった。途中で立ち寄ったテルジットなども含めて、こんなに素晴らしい観光資源があるではないか、モーリタニア!と思うようになった。もちろん他の国と比較の問題もあるかもしれないが、ここ数年観光客も増加しているのこと、ぜひもっと知られてほしいものである。

さて今回の旅は、いつもガイドをお願いするシディさん に予約関連と車一台の運転を依頼した上、日程はかなり緩く組んだ。歩きも最小限。一日目は、 なるべく移動時間を短くするため に、3週間前に子どもの修学旅行で来たオアシスの町テルジットに宿泊。遅めのお昼ご飯を宿で食べた後、車でオアシス入口まで行き、ヤシの木と水源でのんびり。宿に出夕食の後は静かに夜が更け、星空を仰ぎながら他の宿泊客とおしゃべりした後、テントで眠りについた。

二日目と三日目の夜は、シンゲティ宿泊だ。 シンゲティに行くには、テルジットからさきに広がる山岳地帯の山を越えながら、アタル(Atar)まで国道一号線の舗装道路をひたすら北上。さらにもう一山超えていかねばならない上、途中からは無舗装になる。岩の切り立った山道を運転する場面などがあり、結構スリリングだ。深い峡谷を脇に見ながらアドラ山岳を登っていく。

切り立つ岩山を抜けるように超えていく

アタルに到着すると、町の中心部のロータリーに駐車し、マルシェを散策。建築物も石造りが多く、ヌアクショットとは大分違う雰囲気だ。アタルで創業30年近くになるパン屋さんがあり、ここのパンが「Pain d’Atar」と呼ばれ、おいしくて有名ということで、いくつか買い、昼食用のお肉(メシュイ肉)とお茶用のミントを買って、さらにシンゲティへと歩を進める。

アタルはパンがおいしいらしい。

アタルを過ぎてしばらくすると、シンゲティへ向かう分かれ道がある。ここから先はほぼ無舗装だ。シンゲティまではもう一山超えていかなければならない。途中切通の山道があり、砂漠を通ってきてまた砂漠に出るはずなのに、山道を通ることがなんとなく不思議だ。それからしばらく平坦な道を通ると、両側に岩山の風景が続く。

すると左側にキリンの絵が描いてある看板が立っている。動物のキリンの絵だ。ここにも洞窟壁画が残っているのだ。しかもキリンが描かれているという。 テルジットでも、まだサハラ砂漠が緑豊かな大地だったころに描かれたであろうゾウの洞窟壁画を見た。その時のガイドと呼ばれる青年は壁画の場所を知っていて洞窟に入るドアのカギを持っているだけだったが、ここではいろいろと説明してくれた。時代的にはテルジットのものと同じころで、絵の具は動物の血と土を混ぜて、描き方は輪郭から点をつなげるようにして描かれているという。 保存のためにフラッシュをたかないでください、という注意書きもちゃんとある。 一応周囲に塀があり勝手に近づいたりはできないようになっているが、日光や風から完全に遮断されているわけではないので、これからより良い形で保護されていくことを願う。

その隣の休憩用の岩陰でお昼のメシュイを調理。食後のお茶を飲んで、いざシンゲティへ。30分ほどで金曜モスクを模した門が見えてくる。シンゲティの入り口だ。

シンゲティの門

まずはホテルへ。L’Edenというホテルの一部である、町から少し離れ砂丘のふもとにある施設に泊まった。周囲はぐるりと砂漠で、砂丘と空のコントラストが見事だ。ここには一戸建てのシャワー・トイレ付の部屋と、テントがそれぞれいくつかあり、太陽光発電で電気も通っている。お手洗いもちゃんと水洗だ。砂漠に来ておいて生ぬるい!と思われそうだが、今回は両親の快適さを優先。 バン・ダルガン国立公園では常に青空トイレで、好きな時に用が足せるわけではなかった。 何だかんだ言っても多少文明の手が入っているのはありがたいものだ。さて両親は一戸建ての部屋に、我々はテントに宿泊した。

日没は午後6時半あたり。この時間帯を狙って観光客が砂丘に上っていく。我々も日暮れを見に砂丘へ登る。もちろん車でだ。四輪駆動車でなければこうはいかない。砂丘の上は風が強いが、うす暗くなっていく空と砂丘はセピア色の写真を見ているようだ。日が沈むと急に寒くなり、宿へと降りて行った。食事は離れの部屋でとる。この日の食事で、生まれて初めてラクダ肉を食した。野菜と煮込んだシチューで、クスクスと一緒に食べる。羊肉よりも味があっておいしい。ヌアクショットでもお店でも売っているが何となく敬遠していた。これからは時々料理してみよう。

砂漠の夜は冷え込む。宿に頼んでテントの前で火を焚いてもらった。暖を取って、テントにもぐりこんだ。

朝は砂丘から登ってくる朝日を見ながらコーヒーを淹れた。シンゲティ旧市街には午前中行き、昼食をヤシ農園でとる予定だ。

シンゲティの旧市街は、8世紀に基礎が築かれ、13世紀には地中海とサブ・サハラ・アフリカをつなぐ、サハラ砂漠横断における隊商の中継、またメッカ巡礼への通過地点として栄えた。建物は石造りで、ラクダのふんと土地を混ぜてセメント代わりにし建設されたという。扉の枠組みにはナツメヤシの木材が使われている。扉そのものは当時入手可能だった大きなアカシアの木を一枚板として作られたそうだ。扉のサイズは小さく大人は腰を曲げないと通過できない。砂除け、外部からの侵入を防ぐこと、暑さ対策などが目的で、土地の材料で気候風土に合わせてできた家屋だ。また暑さや砂を避けるために多くの住居は階段を下りて入る、地下に造られた構造になっている。現在ではほとんどの住居は壁が崩れ、遺跡となっているが、中には手を入れて人が住んでいる家屋もある。確かに同時期のヨーロッパの建物などと比べると損傷が激しく、暑さ・乾燥・砂風などもあり、文字通り風化しつつある町なのである。

迷路のような石の壁をつたって抜けていくと、そこにあの何度も写真で見た金曜モスクの塔が立っていた。塔の先に丸いアンテナのようなものが5本立っている。ダチョウの卵の殻を使ってできているのだそうだ。

そしてもう一つのこの町の見どころは、図書館だ。我々が行った図書館Al Ahamed Mahmoudでは、最盛期だった頃に写経された経典や使われたアラビア学問の教科書が保存されている図書館がいつくか残っている。シンゲティはアラビア学問の西アフリカの中心としても栄え、聖地とされた場所でもあったのだ。何十年もこの図書館を紹介しているサイフ先生が、時には詩を歌いながら、古い書物を一つ一つ紹介してくれる。先生の、シンゲティ歴史にかける情熱が伝わってくる。そして図書館の外には、「知識は、滅びることなく継がれていく唯一の富である」というメッセージが看板にあった。先生はその大切な役割を負っている一人なのである。

最盛期には、約3万頭ものらくだを連れた巡礼者たちがこの地からメッカを目指したという。そしてこの地で識者たちが歴史やコーランについて議論を交わし、西アフリカ各地からその学識を学ぼうとする人々がはるばる集まってきたのだ。その豊かな歴史そのものを語り継いでゆくためにも、ぜひシンゲティ旧市街の保存が進められていくことを願う。

そして、図書館を出ると日本人の観光客グループに遭遇した!毎年20-30名の日本人旅行客が来るとは聞いていたが、本当だった。ぜひ日本に戻ってからモーリタニアの話を広めてほしいものである。

図書館を後にし、再度車に乗り込み、ヤシ農園でのお昼。木陰にゴザがしいてある、いつものモーリタニアン・スタイルだ。農園でとれたナツメヤシの実を食べながらお昼を待つ。食べた後も、そのまま横になってシエスタ。シディさんがお茶を淹れつつ、息子にモーリタニアのLe Sigというゲームを教えてくれる。砂の上で小枝や小石を使う昔ながらの遊びだ。のんびりして宿に戻ったころには4時を回っていた。本を読んだりしてまた日暮れ時に砂丘に登る。

翌日は、同じルートでヌアクショットへ戻る。テルジットに一泊し、次の日は朝からひたすら運転してヌアクショットの自宅に着いたのは昼過ぎだった。かなり駆け足だが、詰め込まずに日程を組んだので、あまり疲れも残らなかった。

シンゲティの他にも、ウアダン、ウアラタ、ティシットなどの古くに砂漠の要衝として栄えた町がいろいろとある。ぜひ近いうちにまた行ける機会を作りたい。

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テルジット (Terjit) 小旅行: オアシスと狭谷散策

息子の通うアメリカンスクールが、昨今のモーリタニア治安改善に伴って、宿泊修学旅行を復活させる事になった。息子のクラスが皮切りとして、サハラ砂漠のオアシスとして知られるテルジットヘ2泊3日で行くという。スクールバスなどもないため、交通手段確保も兼ねて家族の参加大歓迎と聞き、家族揃って参加した。

行きは、途中にトイレ休憩やランチ休憩を挟んで5-6時間ほどのドライブ。国道1号線はきれいに舗装されていて運転そのものはセネガルへ向かう道よりもはるかに楽だ。近づくにつれて巨大な岩のような山が見えるようになる。

さらにその岩山の割れ目を縫うかのように山に登って行く。普段ヌアクショットでは坂道すらほとんどない。バンダルガンに行った時も砂丘はあるがこんな岩山は無かった。色こそ違うが、昔アメリカを旅行した時に訪れたアリゾナのモニュメント・バレーを思い出した。

アドラ山岳地帯へ入って行く

宿泊先は、ナツメヤシの木に囲まれた、モーリタニア式テント・ハイマが並んでいるだけの簡素な宿だが共同シャワーとトイレがある。子供たちは先生たちと荷ほどや明日の行動を確認するあいだ、我々保護者はのんびりとミントティー。 一息ついた後、宿から徒歩で10分のテルジット・オアシスへ出向いた。

店じまいしつつあるお土産売りの人々通り過ぎると、足元の地面が苔むしたような緑色の湿った砂地になってくる。ヤシの林をくぐり抜けると、目の前にそそりたつ岩盤から水滴が落ちている。水滴は小川となり、沢となっている。

水の染み出る岩盤。

沢に素足を浸すと、小さな魚たちが寄って来て足の角質をついばんでくる。フィッシュ・スパで使われるドクター・フィッシュらしい。

翌日、子供たちが野外学習の間、午前中に宿から徒歩1時間ほどでたどり着くという洞窟壁画を見に行った。オアシスを通り過ぎ、ヤシのしげる狭谷を通り抜け、砂地の急勾配を上がると、広大な窪地にいた。窪地の壁となる岩盤を登った所に壁画があるという。3-40 分ほどかけて岩場を登ると、岩山の平らな頂上に辿り着いていた。

洞窟壁画はそこからさらに15分ほど歩いたところにあった。テルジットに古代壁画があるという話は聞いたことがなかったので、こういうのが大好きな私はかなり興奮した。

洞窟と言うより、岩の天井に人間や牛の絵が生き生きと描かれている。しかも象が描かれている。この壁画は3000から5000年前に描かれたと推定されている。およそ8000年から5000年前まではサハラ砂漠は湿潤な大地だったそうだ。きっとこの岩だらけの高地も緑があったに違いない。そして象はのんびりと草を食んでいたことだろう。

こちらは牛。

そしてお昼は、保護者の知り合いのヤシ農園でランチ。テルジットから国道1号線を挟んで反対側の岩がちな道を車で下ると、緑が見えてくる。農園の一角には既にカーペットやクッションがしいてあり、大きな鍋が炭火の上で湯気をたてていた。我々保護者チームはのんびりとくつろぎ、まずはお茶。そしてお手洗いセットがやってきて手を洗う。農園で生産されたなつめヤシが出てきた。なつめヤシはモーリタニアでは食前のおつまみだ。鍋から出てきた大きな羊肉の塊を皆でついばむようにして食べる。もちろん素手。フランスパンと一緒にお肉を食べたり、茹で汁をパンに浸して食べたり、塩味だけのシンプルな茹で肉がこんなにおいしいのもモーリタニアならではである。

ヤシ農園でランチ

お肉を平らげてまったりしていると、今度はお肉と炊いたご飯が出てきた。前の皿の残りではなく、他の部位を使っている。右手で小さくにぎりしめてご飯を食べるのが 習わしだ。手で食事ぃー?と思われるかもしれないが、日本のおにぎりだって、タンザニアのウガリだって手で食べるほうがずっとおいしい。それと同じだ。

たらふく食べて、宿に戻った。夜は子どもたちがキャンプファイヤーを囲んで歌ったり太鼓を叩いたり、クラスメートの誕生日を祝ったりしながら夜がふけていった。

翌日は6時半起床、8時出発。学校に帰り着いたのが途中のトイレ休憩を挟んで午後2時。大人も子どもも楽しんで帰り着いたのだった。

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冠婚葬祭にらくだ

息子の学校の脇にある民家の前にオンボロのトラックが停車して渋滞を引き起こしている。事故でもあったのかと思いきや、荷台から一頭のらくだが引きずり下ろされている。

まるで映画で聞いた怪獣の鳴き声に似たらくだの鳴き声が響く。2-3 人の男性がらくだを上から地面に押し付けるようにして座らせ、動かないように四肢を縛られようとしているからだ。

冠婚葬祭のご祝儀やお香典、または献花と言った物の代わりに、こちらでは家畜を送ることが多く、特にらくだが価値があるとされている。今回見たらくだはお葬式向けということであった。

そしてその数は日を追って増える。

次の日は3頭。
その次の日は4頭。

そして最後に見た金曜日は5頭まで増えていた。このらくだ達は、お葬式後に解体され、貧しい人達に配られるという事だった。家族や参列者に限ららないそうだ。

これについて色々調べてみようとしたが、なかなか文献などが見つからなかった。モーリタニア人でも詳しく説明できる人には会っていない。ご存知の方がいたら教えていただきたい。

最後は5頭だった。
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新緑の季節

11月の声が聞こえてくると、ヌアクショットのあちこちで木の枝を大がかりに剪定しているのを見かけるようになる。11月から涼しい乾季に入るためだ。

我が家は庭が高い木に囲まれているため、暑い時は影があって涼しいが、日光が必要な植物もあるため一気に枝落としをしてしまおうと考えた。

まずは庭木剪定歴40年を誇る庭師が二人組でやってきた。うちのスタッフと木を見ながら協議して、早速仕事に取り掛かるかと思いきや、彼の仕事道具である斧をスタッフに渡し帰って行った。契約成立、の印だそうだ。

翌日、庭師ははしごも使わずあっという間に木に登った。斧一つとロープで引っ張って切り落とす。

剪定作業中

風の強い日は来ない、とかで開始から約1週間がかりで作業終了。

剪定した枝の運搬

しかし剪定した枝の運搬は別業者。昨今は遠くまで行って捨てねばならないそうで、一往復にかかる料金は800ウギアと言われた。ちょっと高くないか?何とか交渉して600になった。丸一日かけて4ー5回往復で終了した。

日々涼しくなってきたヌアクショット。次は2年目の家庭菜園に取り掛かる。

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バン・ダルガン(Banc d’Arguin)自然国立公園とヌアディブ(Nuadhibou)への旅(3)

よく見たら前回のブログアップから2か月近くたっている。バン・ダルガンとヌアディブへの旅もすっかり遠い記憶になってきた。この間、子どもの学校休暇を活用して再度セネガルへの陸路旅行を試みたり、モーリタニア人家族に招待されてモーリタニア式テントで週末を過ごしたり、魚釣りに出かけて浜辺でテント・キャンプをしたり、実はかなりイベントで盛沢山だった。イベントの最中は、ブログに書こう、と写真を撮ったり書くこと考えたりするのだが、「バン・ダルガン国立公園とヌアディブのシリーズが終わってないし。。シリーズ終わらせるのが先だなー」と思っているうちに我が家のインターネット速度が著しくダウンした。7月から10月はこちらでも気温と湿度が上がって相当暑い時期になる。そうするとヌアクショット市民が皆こぞってエアコンを使うので、市内の電力供給量が需要に追い付かなくなるとの説明を受けた。よく停電するし、その度に、2メガ以上の資料もダウンロードできないただでさえ微弱なネット・シグナルが完全にダウンするということが続いた。という言い訳はこの辺にして。。

今日も暑い!でも夜になればネット速度は改善する。今日こそは2か月ごしのシリーズを終えてしまおう!と決心した。というわけで、怒る人も文句を言う人もおそらくほとんどいないと思うが、旅の締めくくり、ヌアディブについて。実は写真もどこにいったか分からない状態なので、ヌアディブのスポット的な紹介まで。

ヌアディブは、細い半島の先にある町で、漁業が盛んな上に、東北に500キロほど離れた町、ズエラットとの間を、ズエラットで採取された鉱物を毎日運搬する列車が走っている。列車は200両ほどの車両が繋がれていて、全長約3キロメートル(!)。これは世界最長の列車に数えられるそう。さらに最近はヌアディブ沖にガス油田が発見されており、ヌアディブはモーリタニアの経済の中心ともいえる町なのである。

ヌアディブーズエラット間を走る列車。BBCでも紹介された(こちら)。

ヌアディブに近づいてくると、左手に見えてくるのが、Baie d’etoileという名の、真ん中にキノコみたいな形の岩が突き出ている湾だ。風がある時期はカイト・サーフをする外国人がちらほら。

Baie d’Etoile

さらに、この半島の先の方に行くと、Cap Blancという岬があり、ヌアディブ港に光をともす灯台が立っている。この灯台、1910年に当時のフランス政府によって建設された。一応観光客も案内してくれるが、ここにたどり着く道路はなく、国道2号線の終点から先は、火星の地上探査でもしてるような白い砂地を四駆で進まなければならない。一応入口はきちんとあり、しばらく待っていると灯台の番人がやってくる。灯台の上るために一人150ウギア払う。こちらの物価にしては高いような。。登って見える風景の西側はすでに西サハラ。特に警備もなく歩いて国境通過しても追いかける人すらいないだろう。灯台の傍らには何十年もほったらかされたブルドーザーがあったり、忘れ去られた場所のよう。だが、灯台が見下ろす崖下の海は、隠れたサーフスポットとして知られているらしく、その海中は絶滅危惧種のモンクアザラシの住処になっているという。

また我々は行かなかったが、使われなくなった船が集まっている船のお墓、と呼ばれるスポットも観光スポットとなっているらしい。

ヌアディブで泊まったホテルは、Le cansado。町の中心部から離れている割には大きな建物なので、いろいろと機能するのか心配だったが、シービューの部屋を案内され、快適に過ごした。誰かが「ここはモーリタニアのベスト・ホテル!」と言っているのが聞こえたので、知る人ぞ知るホテルなのであろう。ちなみにエレベーターはない。

そして翌日はまた5時間かけてヌアクショットにたどり着いたのであった。今回はあまりヌアディブで時間がなかったので、またぜひゆっくり来たい。

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バン・ダルガン(Banc d’Arguin)自然国立公園とヌアディブ(Nouadhibou)への旅(2)

2日目の朝は、7時前に目が覚めた。薄曇りの空が広がるタファリット岬を見ながらキャンプ用ガスコンロでコーヒーを淹れていると、シディさんが草鞋みたいな大きさの、焼き立てほかほかのパンを持ってきてくれた。キャンプ場のとなりで水やちょっとしたものを売っている人たちがいて、朝はこうしてパンを焼いているそうだ。素朴な味で結構おいしい。本日のプログラムは、午前中から昼過ぎまで半日魚釣り・ボートトリップ、その後いったんシャミの町に出てお肉を買い、夕方は砂丘の上でメシュイ、となっている。車に荷物を積んだ後、まだ時間があったので、シディさんがお茶を淹れる。ミント・ティーの甘苦い味は一日の活力を与えてくれる。

前日と同じ場所を通りながらイウィクに着いた。しばらく待っていると、村の男性が、その辺の木材の寄せ集めのようなはしごを担いできた。すでに我々のボートには3-4人の船員が乗り込んでいた。我々もはしごを伝って乗り込んで、さあ出奔。帆が勢いよく巻き降ろされ、ロープで帆を張る。風に帆がふくらんで船はゆっくりと村を離れた。バン・ダルガン公園内では、環境保全のためにモーターの使用が禁止されている。なのでこの近海で行われる小規模の漁業は全て帆船。マスト1本だけの小型帆船だけだ。水面の音を聞きながらまさに滑るように船が進んでいく。

1時間ほど乗っていると、正面に岸が見えてきた。他の外国人観光客を乗せた帆船が浅瀬に停泊している。これも同じく環境保護を目的として、調査目的以外では人は岸に上がってはいけないことになっている。彼らが浅瀬で遊んでいるその向こうには、ペリカンらしき群れが見える。双眼鏡で見るとさらに遠くにはフラミンゴが群れている。2-300羽は優に超えているだろう。時々波を描くように群れで舞い上がる。12月になると遠くロシアから北極を超えて越冬しに飛来してくる鳥がさらに増え、最大数は数万羽になると言われている。この時期でもかなり見ごたえがある。12月に再度来てみてみたい。

さて目的の島に到着した。ここも上陸はできない。周辺の浅瀬で泳いでクールダウンした後、釣りざおを垂らしてのんびりと魚が釣れるのを待った。20分ほどで息子が最初の一匹をゲット。そのあと、ぼちぼちかかって1時間弱で5匹ほどが釣れた。家族で初めて釣りに挑戦した我々としては上出来だ。その場で内臓だけ処理し、翌日のお昼にバーベキューにすることにした。

そしてイウィクへの帰途、シディさんが遠くを指さして言った。「いるかだ!」皆興奮してボートから身を乗り出す。舟から見える数は多くないが、魚の群れを追っているらしく、ときどき背びれ付きの丸い背中が海から飛び出してくる。なかなかシャッターのタイミングがつかめない。いるかに追われている魚も跳ねながら逃げる。タンザニアのサファリで、ライオンがガゼルを追い詰めるところを見ているようなもので、追われている方にしてみれば、見世物になって迷惑な話かもしれない。だがいるかのこうした野生の姿を見ることはなかなかないものだ。シディさんは新旧モーリタニア大統領の名前とか呼んでいる。。逃げたら困るんですが。

さてその後いったんシャミの町に戻り、メシュイ用のお肉を購入。夕食は砂丘でメシュイにしよう、というシディさんの提案だった。また砂漠を走る。私にとっては行けども行けども同じ風景だが、シディさんは小さいときから数えきれないほど往来していて、ちょっとした植物の移り変わりなどが道しるべとなるらしい。3-40分ほどすると、むき出しになった肌のような砂丘が見えてきた。見晴らしのいいところまで車で登って、持参した簡易バーベキューセットに炭で火をおこす。さっそくメシュイの調理が始まった。メシュイにはよく玉ねぎが一緒に調理される。これにシャミの町で買ったフランスパンが主食だ。もちろん食事の前後にはミント・ティーが淹れられる。

砂漠の向こうにぼんやりと遠く沈みゆく夕日を見ながら、我々以外に生きて動いている物ははいないような感覚になった。そして我々の食事は、シンプルだが、一生に一度くらいの特別な食事に思われた。メシュイを食べ終わったころにはすっかり日も暮れ、暗闇の中をイウィクへ戻る。夜間運転もシディさんの眼だけが頼りだ。そしていつの間にかイウィクへ戻り着き、宿であるコミュニティ・キャンプ場のバンガローに落ち着いた。シディさんは外で火を焚いてその周りにござを敷き、ミント・ティーを淹れ始めた。主人はござの上にマットレスをおいて夜空の下で寝るという。私もしばらく海からの風に吹かれながら寝る前のミント・ティーを楽しんで眠りについた。

翌日はモーリタニア第二の都市、ヌアディブだ。